みそ汁しる

ジャニーズにはまったのではてなブログをはじめました

そういうこともあった、ということ。

2015年1月のログ

 

じょんひょんのさがじしょーみたよ~~!!!

例によって例のごとく、かなり長くなってしまったけれど、いまから感想落とします!!

いや~とても良かったのですが、何が良かったかって、まずはタイミングだと思います。あのソロアルバムが発表されたあとでの、さがじしょーというのが、とても良かった。これは、てみんのソロ活動のときにも感じたことですが。

てみんのさがじしょーが、個人的にはすごく好きで、あの回のしゃいにパートが(おにゅはいなかったけれど…)、自分にとって、しゃいにというものを新たに考え直すきっかけになっていたりしたので。また、カイくんとの関係性であるとか、翻って、SMEというものの特異性であるとか。

じょんひょんのは、さらに彼の個人的な心理に、深く立ち入っている印象を受けました。それが、彼が発表したソロアルバムの印象と、とてもリンクしていたように感じられたのです。

てみんのときは、会社でのてみんの位置というのを深く考えさせられたし(アルバムに同じく)、じょんひょんのさがじしょーでは、彼の、一人の青年としての心のありようと、そして表現者としてのありように、やさしく寄り添っていたように、感じられました。

個人的に好きだった言葉は、彼の座右の銘でもある「理解より容認」と、「青年は悲観的であってよいのではないか」という考え方。じょんひょんの性質を、とてもよく表している言葉ではないかと感じた。

みんぎょんもてみんも、その距離感がかわいらしくてよかったのですが、ザイオンティーのコメントが、いちいち好きでした。ものすごくシンクロしてしまった。わたしは、表現者としてのじょんひょんが、すこぶる好きなので、自らも表現者として、彼にひたすら肯定的なザイオンに、ひどく共感したのです。

じょんひょんがザイオンに対して感じている、嫉妬も込みの羨望がありつつの友情であるとか、お互いにまず、相手の才能に対しての深い理解とリスペクトがあってこその関係というのが、よくよく伝わってきて、ものすごく素敵だなと思いました。

チームメイトであり、身内であり、仕事仲間であり、家族のように近しい存在で、その裏も表もそれなりに見てきているてみんと、同い年で、同じ業界で働いている仲間で、そして異性である友人のみんぎょんと、比較的近年に知り合った、お互いの才能への認識ありきで付き合っているかのようなザイオン

じょんひょんのやってきたことが、しっかりと、友人を介して語られるようなメンバーになっていて、それだけでもう、幸福感を感じたなあ。

あんなに繊細で、ナイーブで、優しくて、壮大なロマンチストで、愛と肯定的なマインドに満ち溢れた、鋭利で敏感な感受性をもつ青年が、いまアイドルを経てアーティストとして、ゆっくりと諦めずに大人になっていってくれていることに、わたしはただただ感謝して、感服して、感動するしかなかったです。

わたしが素敵だと思っているところ、彼の、表現者としての長所だと感じているところは、裏返してみれば、短所として揶揄されることも、あるのだろう。「表現者」という前提を取り上げればなおさら。誰かが言うように、キザで、大げさで、セクシーの強調だって、捉えられることもあるのかもしれない。

そして、本人だって、それを少なからず自覚しているわけですよ。「重すぎる」「面倒そうなタイプ」って見られているかも、なんて笑っていたじょんひょん。それはつまり、「敏感な感受性」の、裏返しの言葉ではないだろうか。

仕事として活かされている長所は、日常においては短所にもなりえて、そしてそういうジレンマをつねに抱えているのが、「表現者」なのではないかと思う。だからザイオンをはじめ、同じ仕事に従事している仲間たちは、ずっと、そんなことはない。それが彼の魅力だ、というようなことを言っていて。

舞台で観客を、また番組でテレビの向こう側の人間まで魅了するためのセクシーさや、声の力は、日常生活においての、ささやかなそれとは別物であって当然だと思うし、それを「大げさ」と揶揄すること自体ナンセンスだとわたしは思うけど、でもそういう認識の元に、言葉を吐き出す「大衆」もいるわけで。

じょんひょんが涙してまで吐露した苦悩は、誰にも、彼以外にはどうすることも出来ない類の話ではないかと、わたしは思います。わたしたちは、芸能人の、一人でいるときや、家族といるときの顔まで知ることは、どうしたってできないし、それを「必要としているか」と問われたら、答えに迷ってしまう。

「必要としている」と即答できる人だって、それは「芸能人」をしている本人を認識しているからこその、発想なのであって。

芸能人や、アイドル、表現者というのは、そういう宿命を背負った職種ではないかとも思います。「表現」してこそ、"必要"とされる。

何が本当の自分なのか、本当の自分の姿は果たして必要とされているのか、理解されるのか、というのは、どうしたってついてまわる、他者からはとうてい推し量ることのできない、深い、苦悩なのではないだろうか。

でもじょんひょんは、そこでコミュニケーションを諦めるのではなしに、自分が「理解されない」のなら、自分が自分を取り囲む状況を「理解しよう」と努めたのだし、「容認しよう」と考えたんですよね。わたしはこの思考の流れを知ったときに、泣きたくなりました。ほんとうに、泣きたくなったんです。

アイドルたる、ということは、そういうことなんだ。と。おそらく、それが最も「正しい」道なのだろう。「アイドル」でいつづけるためには。と感じたと同時に、そこまで至らしめてしまった、その「アイドル」が好きな自分、というものを考えたし、だからこそ、ものすごく、ありがたいとも思った。

じょんひょんがそうして、「大衆」も「ファン」も、他者を諦めないでいてくれていること。

彼はソロアルバム制作を通して、「音楽は共感であると思う」というようなことを言っており、またさがじしょーという番組を通じても、自分一人の言葉にしっかりと向き合い、受け入れてくれている、と感じられたというその体験から、もう少し自分の気持ちを、正直に伝えてみてもいいかもしれない、と。

自分から近づいてみて、それで変わることもあるかもしれない。そう思えるようになった。と言っていました。涙を流す横顔を、隠さずに。

結局は、そういうことなのかもしれないと、わたしは思います。彼らの、音楽やステージ、"ステージに立ちつづけようとする姿勢"、またあらゆる仕事を通して、他者は何らかのものを感じ、彼らはそこに懸命に自分の一面を込めることによってでしか、相互の関係というのは、成立しないのかもしれない。

けれど、人々に「必要とされている」と本人が感じているものと、「本当の自分の気持ち」というもののバランスを、少しずつ取れるようになっていくのも、成長ならば、その過程を見つめられ、そうして受け入れていけることの、喜びもある。

そういう、双方にとっての"コミュニケーション"の成長も、もしかしたら、あるんじゃないかと。

ちょうど、彼のアルバムやソロ活動を通して、そういう側面に触れられているような気がしていたので、この番組は個人的に、非常にタイムリーなものとなりました。

じょんひょんが言った、「青年は悲観的であってよいのではないか」という考えは、もどかしさを感じていて、暗く悲観的にならざるをえないのが青年なのであり、そのもどかしさがやがて成長を促し、変化へ至る過程になるとするならば、それはそれでよいのではないかと思う。といった主旨の言葉でした。

青年よ、共にがんばろう、とも。

「理解より容認」もまた、自分が自分であることを守ろうとしつつ、それでもみなの前に立ちつづけるために、"自分"と"他者"を尊重した上での、コミュニケーションを諦めないための言葉ではないだろうかと、わたしは考えます。

このように、じょんひょんの根底には、自分以外の存在、他者、人間というものに対しての、根底的な愛と信頼からなる肯定感が、つねに横たわっているのを、わたしは感じるのです。青年が成長するだろうという可能性への信頼。自分を理解しない他者を、それでも容認しようと試みる姿勢から感じられる愛。

わたしは彼の、そういう根本にある、人間に対する信頼や容認、肯定感が、とても好きなのだと思いました。その姿勢、言葉、音楽、表現、そういったところからこぼれる、あたたかさに満ちた愛が、とても好きだと思います。それはやはり彼の一面なのだと思うし、彼の人間としての側面なのだと思うから。

つねに戦いながら、それでもアイドルでいてくれていること、誠実にこちらを向いてくれていること、とてもありがたいなと思うし、それこそ、ファン冥利に尽きる人ではないかと感じました。

一方で、ザイオンが語った「健康でいられるスケジュールではない」というような一言には、胸を突かれたし、それは、アイドルがアイドルでいてくれるありがたさとはまったく別に、現実として受けとめなければいけない言葉ではないかとも感じた。

でも外野からしたら、「アイドルの働かせられ方」についての答えなんて、なかなか出せるものではないとも思う。どうしたって関与できない領域の問題であるし、だからこそ、その働きに報いようとする形でしかなかなか応えようがなく、けれど、そのままでは、何の解決にも繋がらない。

改めて、ジレンマだなあ~…と感じました。ほんとうに。

しかし、じょんひょんが今回の活動を通して全番組で1位をとれたことは、やっぱり嬉しいことであり、彼にとってもしゃいににとっても、またSMという会社にとっても、新たなステップとなりうる快挙ではないかと、個人的には感じています。ほんとに素敵なことだと思います。じょんひょん、おめでとう!

 

 



 

(いまになって思うのは、ジョンヒョンというのはやはり、本当のところはずっと自分がして欲しかったことを他者に進んで施そうとしていた人だったんじゃないかということで、最後の最後の、ほんとうにギリギリになる最後まで、彼は「一向に自分を理解しない他者」(という彼の中の絶望)を、自分こそは理解しようと懸命に努めて、努めて、ひとりで努めていたんじゃないかということです。彼は間違いなくうつという病気ではあったのだけど、そんな自分の状況を正しく把握出来ていたくらいには彼は冷静ではあって、いや冷静ではなかったんだけど、理性的ではあって、やっぱり最後まで、最後まで自分を、他者を、"自分に対する理解"を、けっして諦めきれなかった人なのではないかと思います。諦めたからこその死なのではなく、諦めきれなかったからこその死、なのではないかと。わたしは思うのです。それゆえに彼は最後の最後の瞬間まであがきながら、わたしたちに、こんなにも用意周到にたくさんの未練がましい言葉を残し、"共感だと思う"と語った音楽を残し、「笑うことは出来なくても、責めて送り出さないでほしい」と、「苦労した、お疲れさまと言ってくれ」と、最期の送り方まで指定して、最後まで、ほんとうに最後まで、当てつけるように自分のその選択を、自分の苦悩を、生き様を、自分を、理解して欲しがったんじゃないかと。そう思います。そこにおいてわたしが個人的に出せるいまの精一杯の答えというのは、わたしにはどうしたってアイドルをひとりぼっちにさせないことは出来ないが、それでも、一方的に理解しようと努めることは出来る。ということです。たとえそれが届かなくても。どこまでも無力で一方通行で暴力的な行ないでも。それくらいは出来る。ということです。なのでわたしはこのテキストを残します。これがわたしなりのどうしようもない、彼への理解の一端なのです)

 

 

 

(メンバーの追悼文に関して。まさにジョンヒョンが望んだ言葉を望んだ通りに、ファンに対する配慮も込めて、とても親密に砕けた空気で軽やかに届けたみせたキーくんは、どこまでも賢く、賢く、また賢い、泣けてくるくらいに率直で賢い人なのだと思ったし、対象を限定せず、限りなく多くの人に向けられているようでその実、それは彼が唯一届けることが出来なかった相手へ向けての時間遅れのラブレターだったということで、オニュの文のあまりのやるせなさ(と共にそれでもそれを文章にせずにはいられなかった彼の心情)に、わたしはいまも言葉が継げないでいます)

 

 


2015年3月のログ

 

しゃいに東京ドーム、とてもよかったです。端的に言ってボロ泣きした。つぎからつぎからぐしゅぐしゅと、こみ上げてくるような涙だった。

まばゆいしゃいにをキラキラと照らす光の一粒になれて、これほど光栄なことはなかった。ありがと!!!!!

ほんとうにしゃいにらしい、誠意の尽くされたドーム公演だったんじゃないかなと思う。アットホームで、サービス精神たっぷりで、二階席だったのだけど、もうすごく楽しかったし、しっかり届いてきたし、泣きたくないのに泣けて泣けて、周りみんな号泣で。しゃいにもまたみんな号泣で。

泣ければいいという話ではなく、それほど、一体感を感じたんですよね。「東京ドーム」という場所に対する並々ならぬ想いも、頭っからしっかり感じたし、またあの子たちがそれを、臆面もなく出してくる。それにまた感動する。

15日入るか迷っている人がもしもいたなら、行って損はないんじゃないかなあと思いました。

おにゅのレイニーブルーが、もんのすごかった。声の海っていうのはこういうのをいうんだな、と思って。ただただ、空気を震わせている圧倒的な音に、胸と息が詰まるのと同時に、深海にいるみたいな、静謐さがあって。でもっておにゅが、泣くんですよ。歌いながら、瞳に涙を滲ませるの。

てみんのピアノ伴奏は美しく、おにゅの声音は息を止めるほどに圧倒的で、でもおにゅが泣くから、自分が何に感動してるのか、わからない。わからなくなる。たぶん、そのぜんぶなんだけど。なんか、すごい時間だった。

盛り沢山すぎてもう、てんてこ舞いになりながら過ぎていった時間の中で、異様に、心に残ってる。

しゃいにの東京ドームの、あそこにあったのはさ、これまで、自分たちは自分たちの足並みで歩んできたグループだからこそ、成し遂げられた、等身大の、光のまたたきで、だからあそこには、不足も過剰もなかったとわたしは思うし、すべてが無理なく釣り合っていて、だからあんなにも、幸福だった。

誰とも比べられない、しゃいにだけの成功だよ。

そういうグループでいられたことは、素晴らしいことだと、わたしは思うんだ。東京ドーム公演においてでさえも、しゃいには、どこまでも周囲に誠実にあろうとしながら、しゃいにらしさを貫き通そうとし、それが結果、これまでと、そしてこれからを繋ぐ、力強い、意味のある場になりえたのだと思うのだ。

あそこでわたしが何よりも嬉しかったのは、彼らの「これまで」が肯定されたのだ、と、感じられるような公演であったのと同時に、彼らの「これから」も、明確に見えるような、そんな公演だったからなのでした。

最後まで悔しげにしながらも、自分の言葉で自分の気持ちをまっすぐ伝えてくれたてみん。自分がここに立っていてもよいのかもわからない。こんな未熟な僕たちを、愛してくれてありがとう、と言っていたキーくん。ここで、新しい夢ができました。みんなと、ずっと一緒にいたいです。というミノの言葉。

歌いながら、あまりにも自然に涙を流していたおにゅ。楽しそうで、嬉しそうで、ほんとうに楽しいです、と言っていて、そのあとごまかすようにおどけた。背後のBGMにさえ名残惜しそうに声を乗せながら、観客と共に歌うたびに幸せそうにして、最後まで光の渦を、愛おしそうに見たがったじょんひょん。

その手の中にあるものを愛おしむことも、いまだ足りないと思って求めることも、そんな彼らをただまっすぐに愛せることも、お互いの存在に感謝しあえることも、そうしてそれが、次へと繋がっていくのならば、そんな幸福は、ないじゃないかと、思えたのだ。わたしは。

言葉にするのが、どうも野暮になるくらいの、公演でね。今日も、あの会場にいる人たちみなの心に残る、そんなものになればいいなと思っております。

昨日からアイドルが脱ぎすぎて、「アイドルの裸」がゲシュタルト崩壊起こしそうよ…。てみんの露出は、どんな遠距離から見てもありがたさが半端なくて、神々しく、生命の神秘に触れるようだった…。キーくんのボンテージは、あれが見苦しくなくつくり込まれてきた身体に、ひたすら感動していた…。

最高にユニセックスで、大きなつば帽子を被って、赤髪で泣きそうになっている姿なんかはもう、アニメキャラクターのような…。「お嬢さん」そのもので。キーくん、めっちゃ可憐だったよ…。外見もそうなんだけど、性格自体、可憐で品があるなと。サービス精神がすごいのに、節度もちゃんと持っていて。

そもそもキーくんが鮮やかな赤髪でステージに現れたときから、わたしはもう、ぐっと胸を掴まれたような気持ちになり、ああ、"ドーム"というものをそう捉えているんだ!この子は、って。そうやってしゃいに全員が、ものすごく真正面から、"東京ドーム"に、向き合おうとしてると感じられたんですよ。

Fireよかったよね~~~~~TTTT もともと素敵な曲だとは思うのだけど、すごくコンサート映えするというか、歌詞と"コンサート"という空間の親和性やシンクロ性が、異常に高くて、またスクリーンに歌詞を出し、みんなで歌える演出にしたのが、憎らしくて…。

"愛"というのが、あそこにはたしかに、あるわけじゃないですか。満ち溢れているわけじゃないですか。

むしろ、あんなに愛を、炎を、一人ひとりの照らし出す光の力を、「誰かがいることで完全になれる」という感覚を、感じられる場所はないんじゃないかとすら、思った。おそらく、日常で心を動かされるスケールより、ずっと大きなことが、あそこではきっと、光の数だけ、起こりうるのかもしれないと。

みんな、日常での苦痛や傷を抱えつつ、でもそういうものは一旦置いておいて、コンサートを見に行くんだと思うんです。で、もしかしたらそれは、アイドルも同じなのかもしれないって感じたんです。裏での、苦労やつらさはきっとあって、でもそういうものはまた別にして、コンサートをやる。やり遂げる。

あそこは、みんなで一緒に、「良いことを分けあいましょう」「良いことだけにしましょう」って空間だと、感じたんです。

メンバーも(とくにじょんひょん)、MCで正直に、実感を込めて言っていたけど、この四年間、ほんとうにいろんなことがあったと。

たぶん、アイドルも人間なんですよ。ファンも人間で、だけどアイドルも人間で。歌って踊って、その懸命さで人の行く道を照らしてくれる存在ではあるのだけど、でも、みんなきっと、誰かいないと生きていけないんだって。ファンがアイドルを求めるのと同じくらい、アイドルにもファンが必要なんだって。

言葉では何とでも言えるそのことを、とてつもないリアリティを伴って、体感できた気がしたんです。

Fireを歌う会場を見て、泣いて歌えなくなるキーくんを見たときに。レイニーブルーを歌いきった、おにゅの顔を見たときに。サプライズで堪え切れずに泣きだした、5人の姿を見たときに。

しゃいにが、伸びやかな歌声で、「今までの愚かな僕を、」と歌うのを見ていて、感じたんです。

わたしから見たら"完璧"に見えるしゃにでも、"完全"に見えるしゃいにでも、日常ではもしかしたら、わたしたちと同じように、ささいなことで「自分は愚かだ」と感じる瞬間も、あるのかもしれない。でも、「しゃいに」だから、コンサートでは、最善を尽くして、「完全」に振る舞うんだって。

コンサートって、そういう場所なんだって。

たとえ「数時間」の繋がりでも、みんながそこに、自分の人生の中の「最良のとき」を持ち寄ろうとして、演者もファンもスタッフも、みなが互いを思いやりながら、力を尽そうとして、それがあんなにも大きな光となり、もしかしたら、それを繋いで、生きていけることもあるのかもしれない。って。

「自分の人生」というスケールで、「その場」を語るメンバーを見たときに、わたしは、涙が止まらなくなって。

なんてものを、そんなものを、分かち合わせてくれるのかって。なんて。なんて。なんてことだと。

日常の生活なんて知らない、プライベートなんてまったくわからない数万人の人間が、ものすごいリアリティを伴って、あの場を、共にしていたんですよ。しゃいにも含めて。泣きながら。「しゃいにが好き」という気持ちだけじゃない。おそらくそこまで知識がない人も、興味がない人も、いたかもしれない。

でもしゃいには、そういうライブを、やったんだと思うんです。何より、あそこにいた全員の力で。

キャパとか名誉とか東京ドームとか、正直わたしはよくわかんないんですよ。思い入れもないんです。ただわたしはしゃいにが好きなので、しゃいにの語ってきた"東京ドーム"を見てみたくて、あそこに行って、結果、予想を遥かに超えて感動した。でもそれはけして、"東京ドーム"ありきの話じゃなくて。

それを目標にして、走り続けてきた"しゃいに"ありきの話なんですよ。韓国でデビューして、日本でもデビューして、たくさんの苦楽を共にしてきた、彼らの努力と道のりの果てにあった感動だったと思うんです。ドームだからじゃなくて、しゃいにだから感動した。しゃいにのドームだから感動したんだよ。

そういうグループだと思うんですよ。彼らは。やるって言ったらやるし、思い入れを語れば、それだけよいものを見せてくれる。必ず。そういう思いが、わたしにはあった。

けど、わたしがそうやって「完全」だと思っていたしゃいには、きっと「完全」じゃないときもいっぱいあって、それでも、「完全」を見せてくれる。

たくさんの光の力で。

光に照らされて、導かれて、「完全」を見せてくれるグループなんだと思ったし、そういう、コンサートだったなと思いました。

「完全」ではなく、そこにおいて「完全」を目指そうとするグループであるからこそ、こんなにも、しゃいにが好きなんだ。大好きなんだ。愛しいんだって、思いました。

 

 



 

(この最後の感想はいまでもほとんど変わっていなくて、やはりそんなグループだからしゃいにが好きだし、しゃいにのメンバーが好きだし、ジョンヒョンが好きだなと思います。どんなに優等生だと言われようとも、つねにそこにおいて自分たちに出来る最良のパフォーマンスを目指そうとするから、彼らが好きなんです。もしかしたらそういう評価がときに彼らを苦しめていたのかもしれなくても。それでも、そういう気持ちでわたしはしゃいにが好きです。それにしても、Kドルに対する自分はひたすらエモくて気持ち悪さすら感じるな。いま、このときを振り返って思うことは、そんなたくさんの想いの集まった大きな光にも、太刀打ちできないほどの個人の苦しみというのも、もしかしたらあるのかもしれないし、それを繋いで生きていけないことだって、あるのかもしれない。ということです。瞬間は、つぎつぎとさらなる一瞬に塗り替えられてゆく。他者の存在は、わたしにいつだって、自己完結の先の世界を教えてくれます。ジョンヒョンはわたしにとってそんな存在だった。彼にとって、他者とはどんな存在だったのだろう。それが一生窺い知れないことが、いまとなっては無性に悲しい)