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みそ汁しる

ジャニーズにはまったのではてなブログをはじめました

アシンメトリーについて(あるいは、シンメではないということ)

 

どうも。ジャニーズに足を踏み入れてからというもの、シンメという概念について考えない日はないわたしです。

そうさせているのは、神山くんと重岡くんという存在が最たる原因なのですが、シンメという概念に固執するあまり、反して「シンメではない」というのはどういうことか、についても考えるようになりました。

そのきっかけは、小瀧くんとはまだくんにあります。さらに言えば、「雪に願いを」という二人のユニット曲のせいなのです。

今日は、「シンメではない」すなわち"アシンメトリー"である、ということについて、深い意味をもたらしてみせた、はまこたという概念に関して、ちょっと考えてみたいと思います。

 

 

 

ジャニーズWEST内のシンメ

 

まず、ジャニーズWESTのシンメについて考えてゆきます。紆余曲折あったグループなので、さまざまな部分を取り上げることもできるのですが、ここはJr.時代からの定番の組み合わせを挙げてみます。「B.A.D.」と「ツインタワー」と「かみしげ」です。

この3つはどんなシンメだろうか、とわたしは考えます。B.A.D.は、考え得る限りパーフェクトなシンメ。ツインタワーは、並ぶことで武器になるシンメ。かみしげは、箱庭になったシンメ。という印象です。

シンメになる。アイドルが二人組になって踊る。というからには、相手がいることが最低限、互いにとっての"利"にならなければいけないんじゃないか、というのが、わたしの基本見解です。なので、補完関係にあり、情があり、ビジネスパートナーとしても良い関係に見えるばっどは、すごく良いシンメだなって思うんですよね。

ユニットのときは、二人で二人の立場や利を懸命に守ろうとしていて、そしてグループになった今では、その端と端で、今度はグループの利を守ろうとしているように見えます。二人組のみならず、"グループ"であるからゆえに、もたらされる利。

自分たちにはない強みをもったメンバーが、今度は5人も増えたのだから、その力を共に頼り享受しつつも、"良いグループ"になれるように、考えて動いている。

ツインは、ある意味ものすごくわかりやすくて、隣並ぶことで、ビジュアル的に互いに増幅効果を導き出せる、っていう、これはもう清々しい、素晴らしきシンメの形なのかもしれません。視覚的効果でぶん殴ってくるような、明快さが良い。二人+〇〇でさらに美味しくなるニコイチ感も美味です。

かみしげについては、わたしは語る言葉をほとんど持たないのですが、それは重岡くんが内側から扉を閉めることを選んだからで、わたしはそれを尊重したいと強く思うからです。ものすごく閉じたシンメだと思うのですが、そこにきっと意味があるんだとオタクは勝手に思っていて、そこが大好きなのです。

気軽に触れられたくないと思うなら触れないし、暴かれたくないと思うなら暴きたくはないし、ただ、二人のあいだに確かに、二人にしか共有できない世界があることに感謝しかなく、出会ってくれてありがとう、一緒にいてくれてありがとう。二人が目を見合わせて笑いあうたびに、オタクはむせび泣いています。

7人いるので、3つのシンメができてしまうと、立場的に1人余ってしまう人が出てきます。それがはまちゃんです。ただ、わたしは感じるのですが、はまちゃんとは、「余っている人」でも、「誰からも愛される人」でもなく、「いつまでたってもシンメを不在にしたままでいる人」ではないかと、最近はとみに考えます。

ジャニーズWEST自体もそうで、はまちゃんの隣にそのたび誰かを入れることもなく、永久欠番という形で、そこを空けたままにしている感があり、それがジャニーズWESTというグループの選択ではないか、とも感じるのです。

記念すべき初ドーム公演で、はまちゃんがJr.時代の曲「Stay Gold」を歌ったとき、彼を一人にはしなかったものの、しかしばっどは、並ぶこともしませんでした。ただ、少し離れて、二人して盛り上げていました。

ばっどは、シンメです。はまちゃんは「シンメを失くした人」ではなくて、「そこを不在にすることを選んだ人」では、なかっただろうか。

ただ、ジャニーズWESTは7人組のグループで、あのコンサートは正真正銘ジャニーズWESTのコンサートだったので、誰も、はまちゃんを、一人になどできるはずがなかったんじゃないかと思います。そのとき隣に並ぶことはできなくても、一人にしないことはできる。それが、"グループ"という形であり、ジャニーズWESTの、思い出とメンバーの守り方ではなかっただろうかと、わたしは考えます。

 

 

 

シンメにはならないということ

 

今まで、シンメと、シンメのいない人の話をしてきました。不在にしたままでいることにより、"いない"ことが「いた」ことの証明だ、みたいな人の話をしてきました。今度は、そういう人に対する態度として、対になることは選ばなかった人の話をしたいと思います。

対にならなくても、寄り添えることはある、という、これはそういうお話です。

わたしがはまこたについて考えるようになったのは、それはそれは遅く「雪に願いを」という曲を聴いてからでした。それまでは正直、この組み合わせがよくわからないでいたんです。それなのに、その曲を聴いたらば、ふと霧が晴れるようにして、一瞬で「これはそういうものなのか」と、腑に落ちるように理解しました。

まず感じたのは、この二人は、互いの声をここまで裸に剥き合える存在なのだなあ、ということでした。なおかつ、さらに二人が二人で歌うことで、これほどまでに高め合えてゆけるのであれば、これはもう、どうしようもない意見なんですが、わたしは即座に

「実質セックスじゃん!!!!!!!!!」

と思ったのでした。

いや、まじでセックスですよ。わたしがはまこた担なら、こんな興奮することはなかった。

ただわたしはかみしげ担で、かみしげという組み合わせは、その性質上、まるで壊れ物を扱うかのような繊細さで互いの世界に触れようとするようなシンメなので(概念です)、暴き合うなんてのはもってのほかで、相手に気に入られるために着飾り、二人して閉じてゆくようなシンメなので(しつこいですが概念です)、その違いに驚いたのです。

そこから、はまこたのことを考えるようになりました。

この曲に関するインタビューで知ったのは、しっかり歌いたいからという理由で二人の組み合わせになったこと、それまでいろんな曲が候補には挙がっていたが、二人して「これだ!!」となったのは該当曲のみだったということ、先にはまちゃんが歌入れをして、それを聴いたのんちゃんが、その声に引っ張られるような形で、歌ったということ。

わたしがいつも思うのは、はまちゃんって、この曲が好きだ!!とか、これが好きだ!!みたいな感情が、屈託なくはっきりとしていて良いなあ、ということと、のんちゃんって、人を尊重できる人なんだよなあ、ということです。

敏感にその機微を読んで、人に寄り添ったり包んだり、ときに与えたりすることのできる人で、今回だってきっとたぶん、この曲が好きだ!!というはまちゃんの強い力に引っ張られて、その気持ちに寄り添いたいと思って、結果、二人はああいう歌い方になったんじゃないかな、と感じたのです。

のんちゃんって、はまちゃんが抱えている大切なものに寄り添えるし、与えられる人なんだなあ、って思いました。ギターに初挑戦しようとしたことを鑑みても。

別に、何かが対であるような二人ではないと思うんですよ。むしろ、その力に引っ張られたり、一方的に寄り添ったり、相互に何かを引き起こすというよりも、少しあべこべなタイミングだからこそ、やや離れているからこそ、できることがあるのかもしれなくて。

シンメとは、二人でいることで、それが武器になる、武装になり、並ぶことで、互いの存在を引き立て合える。そういう、相乗効果のことだとしたら、互いの存在を、ときに裸に剥き合えて、無防備にできるような二人の関係は、やはり、シンメではないからゆえ、なのかもしれない。

アイドルがステージに立つことは、装うことと、剥がれることの連続ならば。

シンメを不在にすることを選んだ人に、アシンメトリーな立場だからこそ満たせる役割があるとしたなら、それはとても素敵な発見なんじゃないか、と思いました。