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みそ汁しる

ジャニーズにはまったのではてなブログをはじめました

なうぇすとツアーのオーラスに行ってきたよ

はい。最初で最後がオーラスの広島公演でした。まず、広島がとてもいい街だった!穏やかで美しく、初夏という季節が良かったのもあるのでしょうが、ライブ終わりに駅までの道を路面電車の線路に沿ってぶらぶらと歩いているだけでも、妙に心地良くなってきたりして、単純に、こうやって、あまり知らない土地の知らない風を遠征を通して知られるってのは、わりと良いことだなあと思いました。

これまで遠征といえば、パスポートが必須だった人間のお話ですけども。
個人的に、特筆して感動的な公演というわけでもなかったのですが、ただ観ていて、ああ、もうしばらくこのグループを観ていたいなあと思わされるようなものであったので、ちょっとそんな個人の感想というのを、書き記しておきたいなと思います。

 

神ちゃん

 

まず神ちゃんですけどねーーーーーーーーー、もーーーーーーめちゃめちゃかわいかった!!!!!!かっこよかったしかわいかった!!!!!!赤毛(赤髪というよりは赤毛っぽかったかな)(つむじや刈り上げ部分は黒でそのニュアンスがかわいい)が似合っており、ちょっとむっちりしてきた身体つきも相まって、ビジュアルからして非常にたまらんかった!!!!!!
普段文章にするときはいちおう理性が働いているので「○○だから好き」みたいな体を取るんですけど、実物を見てしまったらもうとにかく「かああああ…好き!好き!好き!」という感情が先走り、後から理由が追っかけてくるみたいなところがあるね。
オープニングから「オーラス…やったんで!!」ってな感じの気合いに漲っておりました。わたしは彼のそういうわかりやすいまっすぐさをとても好ましく思っているし、そのステージに自分のすべてを捧げ尽くすかのようなステージングが大・大好きです。
髪型がね~、ほんとにかわいらしく、後半のモフモフ帽を被ってそこから前髪が少し垂れている様子なんかは、往年のチェッカーズのころのフミヤみがありましたね(古い)
なんというか80s~90sっぽいというか、赤毛で、前髪を分けていたり垂らしている姿にややそういう匂いがあって、かと思えばときにお坊ちゃんっぽい気品が見えたりもするし(いかにもデイビッド的な)、しかしユニ曲ではそのステージを覆う鮮やかで攻撃的な色彩にこの上なくマッチしているようにも思えて、総じて赤毛ウマーって感じでした。
アンコール曲の最中、行く先々でずーっと丁寧に銀テをかき集めてはスタンド席のファンにあげながら(その道に一本も残さない徹底した集めぶりはさながらルンバのようであった)「腰が痛い!」ってボヤいてる姿とか、下ネタかと思われた一連の一言シリーズが出産という謎の壮大なオチで終わった空前絶後のトリッキーなハートフルさとか、とにかくよくわからんが神ちゃん好き…って思った。
メンバーに対しても理不尽に「だって〇〇なんやもん!」って甘え気味に言い返すことが多くて、ほんらい言動として筋は通さなきゃいけないと思っていそうな神ちゃんが、それを放り投げてそうやって甘えて振る舞うってことは、それだけメンバーやファン、その空間に対して心を許しているということなのかなとも感じられ、うれしかったかな。
それはとくに淳太に顕著なのかなと思うし、淳太も淳太で神ちゃんを甘やかすのが好きそうなので、一連のたこ焼きストーリーの壮大なかみじゅんオチは、なにやらとても意味不明で非常に良かったなと思います。詳しくは淳太項で。
神ちゃんの下ネタは、みんなが反応してくれるのがうれしくてどんどんヒートアップしていき、ついには謎の展開を迎える「キャラなりきり系の下ネタ」だったんだなあと思って、神ちゃ~ん!!ってなった。淳太よ、乗ってくれてありがとう。
やると決めたことは意地でもやり遂げようとする人だからこそ、それ以外で誰かに寄り掛かっているような姿を見ると、うれしく思います。トランペット、素晴らしいやり遂げっぷりでした。
わたしってやっぱ神ちゃんが好きなんだなーーーーーーーと実感に実感を重ねたライブでした。

 

はまちゃん

 

さっぱりと切った黒髪をすとんと落として、オープニングはややウエッティなスタイリングでメイク濃い目に出てきたはまちゃんは、モニターに抜かれた瞬間から周囲のオタクたちに軒並み「はまちゃんヤバイ…」ざわ…ざわ…「はまちゃんヤバくない?」ざわわ…すえざわ…「はまだヤバいって」と言わせしめ、完全に冒頭から会場を抱いていました。それは淳太が最初の挨拶時に巧妙な誘導で物理的にファン全員を抱こうとしてくる前にだ!
すごくはまこたの波動を感じた瞬間があった。
はまちゃん(棒っぽく)「ハハハ…」と笑う姿がモニターに抜かれる→オタク笑う→はまちゃん「え…いま俺が笑ってるの見てみんな笑ったん?(困惑)」→オタク「そう」→りゅかみ「はまちゃんの笑いはみんなを笑顔にするから」→はまちゃん「(納得しきれず)笑ってみる」→オタク「(笑)」→はまちゃん「え~おかしい(困惑)笑ってみる」→オタク「(笑)」→はまちゃん「えええ~この人たちおかしい!(困惑)」→のんちゃん「いやいや…まず最初の笑い方が心がこもってない感じやからみんな笑ったんやろ?」→オタク「そうそう!(納得)」→はまちゃん「それめっちゃ言われるねんけど!!でもちがうねん!!俺は心から『へ~』って言ってんねん!!やのに『自分そんなに興味ないやろ?』とか言われる!!俺の感情は俺にしかわからん!!」→流星「俺は知ってるから疲れてるんやろな~って思うけど、たまに口だけ笑って目笑ってないときある(実践)」
(以上めちゃくちゃニュアンス)
客席とはまちゃんとりゅかみのズレたレスポンスでどんどん話がもつれてゆくやりとりを、一言で回収したのんちゃんの察し能力がすごかった。
はまちゃんの言っていることはきっとその通りで、はまちゃんの中にはれっきとしたはまちゃんの感情や道理があると思うのだけど、それはなかなか他人には伝わりづらい部分もあり、それを根気強く観察してときに橋渡ししようとするのが、のんちゃんなのかなと思う。
その役目が何故のんちゃんなのかというのにも、きっと理由があるのではないでしょうか。詳しくはのんちゃん項で。
はまかみの距離が確実に近づいていて、神ちゃんがステージで力の限りを尽くそうとすると必ずそれに付き合ってくれるはまちゃんがいるし、はまちゃんの力強い歌声に曲中にも関わらず思わずアクションで賞賛を贈る神ちゃんがいました。
この二人の間っていうのは非常に不思議で、グループ結成後にどことなくシンメ的な立ち位置に置かれるようになったものの、そこから時間をかけてじわじわと、お互いがお互いの頑張りに触発され、認め合い、歩み寄るような形で、近づいてきた二人ではないかなあと思う。
その象徴のような恒例のホルモンパート、はまちゃんが何が仕掛けたらそれに神ちゃんがすかさず応えるというくだりで、オーラスではひたすら二人で接近したり背中合わせになりながらカメラ目線で真顔のままポーズを決め、もはや歌わずポエムるという感じですげー面白かったのですが、奥にいたのんちゃんがカメラに写り込むたびに入りたくてたまらなそうな笑顔でウズウズしており、ついには入ってきたのが、やっぱりのんちゃんって感じだった。

 

のんちゃん

 

伸ばし放題の黒髪を後ろで小さく縛っていて、こちらも80~90年代の少女漫画臭が半端なかったです。作画成田美名子か?神ちゃんはフミヤみたいだったし、こざっぱりとした黒髪に白シャツ姿のはまちゃんも作画上條淳士か?って感じだったし、なんかこの三人を見ているのが面白かった。炎の転校生効果かな?
はじめの挨拶で突然「実はジャケットを脱ぐと乳首が透けています」と言い出して、実際にジャケットをめくりシャツから透けた乳首を見せてきたので、オイオイ…掴みはOKって感じでしたね。のんちゃんはもう……節回しが面白い。内容もさることながら、その前にまず放り込む言葉のテンポや間やらがバツグンなんですよね。ちょっと乱暴すぎるようなその場の要約の仕方も、ボケが重なり気味なWESTにはうまく機能しているなあと思う。
みんながミドルネームを付けてもらったというくだりで、照史はジョージだったという話の流れからの「山本譲二じゃなくて?」という単語が瞬時に出てくるのがもうほんとテメーは何歳だ!?と思う。好きです。
のんちゃんがこうやって瞬発的に的確な言葉を放り込めたり、流れを要約して突っ込めたり、はまちゃんの考えを察せたりというのは、地の器用さや賢さももちろんあるのでしょうが、おそらく、それだけものを「見ている」人だからではないかと思うし、それはつまり口を挟まずにただ「見ている」姿勢が少なからず心の根底に残っている人で、それだけ他人の言動に注視して、敏感にならざるを得ない期間があった人だということじゃないかなと思います。

なので、神ちゃんの甘えじゃないですけど、のんちゃんの伸びやかな(デカい)態度を見ていると、それだけ心を許せるグループに入れたんだな~と感じ入ることもままありますね。
実は、とってもとってもナイーブな人だと思う。今回はそれが、風貌や言葉の端々から滲み出ていたような気がします。
好きな曲やパートになると、俄然力の入る様子が正直な感じがして好きです。

 

流星

 

流星はねー、やっぱりギャップの人だと思った!その最たる象徴であるような、あの顔面でありながらまるで近所の兄ちゃんのようにフレンドリーに接してくる。という落差と同じくらい、隙だらけでゆるゆるであるように見えて、締めるところはきっちり締めてプロ意識もある。というところも、また魅力的なんですよね。
アイドルでありながらとっても自然体で、でもやっぱりアイドルなんだよなーという。
確か神ちゃんが24コンのDVDいつ見ても泣く、という流れで、その話題をフォローしようと思ったのか「俺も、いつもメイキングとか飛ばし飛ばし見るねんけど~」と言いながら、自分で(あーこれ言わんほうがいいやつ…)ってなったのか、あきらかに途中で歯切れが悪く半笑いになる流星が、わたしは好きだよ…。
この人の魅力っていうのは、ビジュアルが研ぎ澄まされてゆけばゆくほど振り幅が大きくなって効果的になるとも思うので、本人もそこを承知していそうなところがまたすごく面白いなと思うんですけど、ドラマのおかげか、多少絞ってきていた影響が今回モロに出ていてすごく良かったです。

 

淳太

 

最近の淳太の神ちゃんへの視線を見るにつけ「お前、もしや…産んだのか…!?」って思ってたんですけど、肝心の淳太は24コンでウルウルする神ちゃんを見て「みんなのオカンみたい」ってウルウルしてるっていうのが面白いな~と感じていた中、そこでかみじゅんが母子プレイをぶっ込んできたものだから心中がまるで穏やかではなかったです。
そもそも神ちゃんが(被っているたこ焼きを指して)「ほら、よしよししてあげて!ぼくと君の子どもだよ!ついに産まれたよ!」とか言い出す→乗っかった淳太が「ママー!よしよししてぇー!」と騒ぎ出す→この時点でそうとう狂ってて面白かったのに、曲中も淳太がそのスタンスを崩さないから、曲終わり神ちゃんが速効で淳太をよしよししに行く→神「よ~しよし♡」淳「わ~い♡」
この二人だけで狂った世界が完結してる感じが最高に面白かった…実は振り切ったらいちばん収拾がつかないのはこの二人では…。
他にもええやんけぇでも二人の世界を展開させまくっていてすごかったし、淳太はグループ内で癒しや女子成分を神ちゃんに求めすぎでは…!?と思うのだけど、神ちゃんは神ちゃんであくまでオスのつもりで淳太に接するから、なんかもうすごいことになるよね…。
確かに智子になった神ちゃんの女子スイッチの入りようはすさまじいけどさ…淳太まじで智子みたいなタイプ好きそうやんな…。
淳太は、メンバー愛が高まっていってる様子があからさまにだだ漏れになってしまう感じなので見ていて微笑ましい。

 

照史

 

照史のはじめの挨拶が好きなんですよね。ファンの反応も含めて。淳太のも好きで、このコンビの重ね技が愉快だなーと思っているんですけど、外では「面白おかしいジャニーズのお兄さん」の顔をして知名度を上げようとしている人たちが、その面影をやや残しながらも、そこからアイドルの方にぐっとシフトをチェンジして、会場を抱きにかかってきている様子が、なんかいいんですよ。
ジャニーズWESTのライブに来たなー!!って感じがする。これ、どこかで淳太も言ってたかな。
照史も淳太も、はなから会場のファンを開いた懐に抱え込んで離さない体で話を進めてゆくのが、頼もしいなと思うし、強かだなと思うし、長年二人でライブをやってきた人たちなんだな~って感じがしますね。またはまちゃんが、すごく等身大の、共に歩んでゆくアイドル像を大事にしたコメントをしてくれるから尚更。良いコントラストだなあって思います。
ミドルネームの話になって、自分と淳太を当然のようにセット扱いでネタにし出したときに「おお……」ってなったよね。


重岡

 

重岡の今現在のサービス精神というのは、大方が「面白さ」に片寄っているんじゃないかなあと改めて感じた次第でした。のんちゃんなんかは、ひらめきや瞬発力も込みで話を展開させていくタイプじゃないかと感じるのだけど、重岡もそういう部分は持ち合わせていながらも、しかしおそらくは事前に「こういうことを話そう」という構想は、それなりに用意してくるタイプなんじゃないかなと思います。
今回ので言うと、ミドルネームの話とか。メンバー全員に平等に話題が行き渡って、かつファンにも喜んでもらえるような内容ですね。
コンサートに来てもらったからには、笑って帰ってもらいたい、楽しんで、面白かったと思って帰ってもらいたい、という、ある種の使命感や義務感が、人一倍強い人なんじゃないかなと思います。そういうところ、なんか、憎めないんですよね。

 

 


ツアーの構成そのものに関しては、なまじその直前にやっていた24コンが「こ、こんな完璧なセトリ見たことねえ…!!」ってくらいよく出来たものに感じていたので、少しの物足りなさがあったものの、しかし人間、物足りないくらいがちょうどいいんじゃないかとも感じたんですよ。

このまま足してばかりじゃ果てがないし、きりがないし、ここいらで引き算を覚えるのも悪くない判断なんじゃないかなと。

キンチャンからの流れじゃないですが、1stライブにギラッギラのこれ以上ないくらいかさばるおめでたい袴衣装で出てきた人たちが、シンプルなシャツ1枚から、曲中にベストを着込んで、ジャケットを羽織り、曲をこなした後にそれをまた脱ぐ様まで見せて、そこからタンクトップ姿でアイスを被るなんて、よくぞここまで来たなって感じもするんです。

これまで培ってきた要素は要点を押さえてしっかり残しながらも、全体的にブラッシュアップして洗練させつつ、サプライズは用意するということがきちんとなされていたライブで、それは何気にすごいことだと感じました。思い切ったなーと。それだけ、先を見据えているってことなのかもしれません。

とにかく転換期というか、いつだって変化してゆく途中なんだなあということが剥き出しになったライブであるようにも感じられて、わたしはそこが好きでした。

あとジャニーズWESTはかっこいいんだということがこれでもかとわかる、それだけで、とても新しい気がします。

かみしげについて

わからないならわからないでいい、見えないなら見えないでいいと思うんですよ。重岡が「そういうもの」にしたのだとわたしは思うので。

ただ、重岡がオーディション会場で、お手本を踊る神ちゃんを見たその日からはじまったそれは、デビュー後のドーム公演辺りを前後して、おそらく一つの決着を迎えたのではないかなあと、わたしは感じているので、それについて、少しつらつらと書いてゆきたいなと思います。

わたし個人として、一つの区切りがついたなと感じたのは、デビュー3周年カウントダウン企画のテレビ誌の連載にて、トップバッターに「かみしげ」の二人が選ばれたことでした。これは、自分にとっては大きいことで、公式から二人がシンメ扱いを受け出てきたことも、まずトップバッターがこの二人であったことも、非常に感慨深いものがありました。

何より大きかったのは、その記事の中でちゃんと二人が、"シンメだった"ことを過去として語れているなと感じられた点でした。これは、それより少し前のアイドル誌のインタビューでも感じていたことなのですが、重岡が神ちゃんに対して「昔っからシンメやっただけはあるわ」と、発言していたんですよ。

重岡という男は、案外"言葉"と親和性が高い男だと思っていて、それを言うにしても言わないにしても、はたまた煙に巻くとしてもあえて泥を被せるような表現をするとしても、それに本人が納得しきっており、責任を持てると感じられているようなところがないと、神経質で、なかなか使えない繊細さがある人なんじゃないかと思うんですね。

そういう人が、言ったんですよ。神ちゃんのことを「シンメだった」と。

今までそれを言えなかった人が、言えなかったからこそ大変だった人が、それを言ったわけです。

わたしは、「よくがんばったなあ」と思いました。

 

 

 

かみしげというのは、おそらく重岡の「自覚性」と神ちゃんの「無自覚性」で成り立っているようなものです。神ちゃんが、突出した前に向かおうとするマインドをもつかわりに、その視野以外はまるで無防備で無自覚なその危うさを補うように、重岡は、あらゆる角度に対して非常に自覚的にアイドルを行なっているなと感じるし、とても武装的な人だと思います。

重岡は、後にも先にも「神ちゃんの手を離さなかった人」なんですよ。わたしの中では、そういう興味の持ち方からはじまっており、関西のセンターであったことも、ジャニーズWESTのセンターであることも、個人的には二の次三の次の話で、わたしにとってはどうしたって「神ちゃんの手を離さなかった人」なので、だから、そういう風に、このお話は進んでゆきます。

重岡は、デビューするときに「神ちゃんの手を離さなかった人」で、初のユニット曲が貰えるという機会に「Lovely Xmasを意地でも実現しようとした人」で、3年足らずの時が経て、やっと「神ちゃんに"シンメやっただけはあるわ"と言えた人」なので、つまり、わたしは彼をずっと「神ちゃんとシンメになりたかった人」なのだと思ってきました。

デビューしてもなお。「シンメだった」ではなく。「シンメ」でもなく。

もちろん、それが最終目的なわけではなく、ああいう形でデビューしたのだから、真面目で責任感の強い彼は、センターとして、グループを良い形で導いてゆきたいと思っていたのだろうし、そこに、自分の私情は持ち込みたくはないと考えていたのだろうし、それでも、やっぱり、どうしても、一度はしっかり神ちゃんとシンメになって、その隣に恥じない自分になれたと納得できた上で、やっと「シンメ"だった"」と言い、それを、解消したかったのではないかなあと。

そうして改めて、何でもないメンバーの顔をして、神ちゃんと共に、他のメンバーと共に、ジャニーズWESTのセンターに立ちたかったんじゃないかと、わたしは考えていたのです。

目指すグループの形になるためにも。思い描くセンターになるためにも。ちゃんと、神ちゃんとシンメになりたかったし、その上で「シンメだった」と言える自分になりたかったのではないか、と。

 

 

 

そういう意味で、「Lovely Xmas」という曲は、他人にはまるで推し量れないような文脈をもつ、とても象徴的な曲であるような気がしているし、重岡はおそらくそうやって、ずっと、人知れず戦ってきた人なのだろうとも思います。

彼がデビュー後、神ちゃんや、それまでの環境の影響下から出て、一から自らのオリジナルであるセンター像を築きあげてゆきながら(錦戸先輩の言葉の影響もあろうが)、それと同時に「Lovely Xmas」という曲を自分が積極的に動いて実現させ、またさらには、舞台を通していきいきと自信をつけてゆく神ちゃんを見つめつつ、グループのドーム公演に前後して、やっと、そんな神ちゃんに対して、「シンメだった」と口にするようになったこと。

それまでを、過去にできたこと。

そうして「Lovely Xmas」も「Dial Up」も、ドームに立つ、ジャニーズWESTのセンターの顔をして歌ってみせたこと。

その整理の付け方というのは、彼の戦いの歴史であろうし、何より、彼なりの前への進み方ではなかったろうかと、わたしは思うのです。

 

 

 

個人的には、神ちゃんの舞台が千穐楽を迎えた、その後のタイミングで催された二人の食事会にて、きっと、転機は起こり得たのではないかなあと予想しているのですが(重岡が、唯一ぶ誌にて神ちゃんの名前を出してわざわざ報告してきたあれです)、重岡はその二人のご飯会をして「幸せやった」と言っているわけで、だからもう、つまりは、結局、それが、すべてなんじゃないかとも思うんですよ。

結局は、ただのメンバーとしていられることが、二人のこれ以上ない形であろうと思うのだけど、そこに至るまでには、そこに至るためには、重岡の中には、どうしても譲れない手順があったのではないかとわたしは思っていて、わたしは彼のそういう、自分の内で意固地に戦う姿に魅せられてきたのだし、彼はどうしたって、わたしの中では、やっぱり後にも先にも「神ちゃんの手を離さなかった人」です。

と、過去を物語るのを拒むアイドルにかわって、「こういうことがあったのではないか」ということを、ただの一かみしげ担が、つらつらと語ってみました。

ほぼ思い込みと推測で成り立っているようなものですが、世界に一つはこんなテキストがあってもいいんじゃないかと、ひどく無責任に、締めさせていただきたいと思います。

 

ツインタワーがツインタワーではなかったころ

24コンオーラスでの小瀧くんの挨拶に端を発する、そこから垣間見えたツインタワー二人の関係性と目線のあり方、というのが非常に興味深かったので、少し書き残しておきます。

例に漏れずわたしものんちゃんの挨拶にはかなりグッときたほうで、ああ、客席に向かってなんて正直に打ち明けてくるのだろう、という、やや胸を突かれるような想いと、そんなときにでもユーモアを忘れない彼特有の姿勢と、それから、自分以外に向けられる、ひたすらまっすぐな感謝の言葉とまなざし、というのが、やけに印象に残っています。

とくに三つ目に関しては、グループの中で最年少だということもあるのでしょうが、その日の昼公演では「僕をここまで育ててくれてありがとうございます」というような言葉が出たりなどもして、なんというか、そこに"驕り"が一切ないことに驚きました。

他のメンバーは多かれ少なかれ、そのとき頭に思い描くそれぞれの"苦境"に対し、「自分はなんとかそれを乗り越えてきた」というような感慨が、少しくらいはあったのではないかと想像するのですが、しかし彼に関しては、彼の挨拶に関してのみ、わたしは、この人は「"自分が"乗り越えてきた」とは、ひとつも思っていないのだな、と感じました。

ただひたすらに、ここに立てているのは、周囲の人間のおかげだと、ほんとうにそう、心から思っているようでした。

その挨拶を聞いているあいだ、やはり、7WESTのメンバーの名前が出るときは、しらず待ち構えるような気持ちになっていました。先輩風を吹かしてきた神ちゃん、で口元が綻び、よくわからないしげ、で、それは切って捨てるようでなんだか優しい言葉のようにも感じられ、それから、12歳の僕を遊びに誘ってくれた流星、というフレーズが、強く胸に響いてきました。

現在の二人の関係は、メンバーでありながら対等な友人のようでもあって、実際にプライベートでもよく遊んでいるみたいだし、家族との付き合いがあったりもして、共通の仲間も多いようです。そういう風な関係性が取り沙汰されがちですが、しかしよくよく考えてみれば、彼らは3歳差なのでした。

10代の、少年たちがひしめきあうコミュニティ内での、しかも比較や競争でひりついた面もある中での、3歳差。

のんちゃんのその一言で、わたしは、12歳の彼はどれだけそれに救われていたんだろうか、と、ただその一言のみで、察するのでした。

お姉さんしかいない12歳の男の子が、妹しかいない15歳の男の子とよく遊ぶようになって、優馬や地元の仲間たちなども介しながら、ある種の"居場所"が築かれてきて、そして今では対等な友人同士のように振る舞いますが、しかし、おそらくはきっと、のんちゃんはそんな流星のことを、心の内ではいつもどこか見あげつつ、少し背伸びをしながら肩を並べて、流星はそんなのんちゃんのことを、心の内ではどこか見守りつつ、肩を並べていた。そんなことも、あったのかもしれない。

友人のように、またはシンメらしく対等に振る舞いながら。こっそりと、互いにその目線だけで。

ふと、そんなことを思いました。

のんちゃんが言ったその言葉が、みごとに流星の涙のきっかけになっていて、そんな風に、敏感で多感な少年だったころの二人が、ぎこちなく交流しだした時期というのが、彼らには確かにあって、今は柔軟に、ときにはユーモラスに伸びやかに過ごしているようにも見えますが、義理堅く、受けたことはけっして忘れなかったり、またそれを持ち出されると、すぐさま記憶が呼び起されたり。

ああ見えて男の子というのは、内側はとても繊細につくられた生き物なんだろうなあとも思えて、ふしぎな感傷が、胸をよぎるのでした。

神ちゃんの翼とはまちゃんだけの道

今日は、わたしが個人的に感じている、神ちゃんとはまちゃんの違いについて、お話したいと思います。

この二人は、こなせるジャンルが似通っているし、そこに対して互いに意識もしているようなのに、表現方法が真逆なくらいに異なっているので、面白いな、と感じたんです。

まずわたしは、どうして、はまちゃんの歌声にはこんなに奥行きや生々しさがあるんだろう?と考えました。「雪に願いを」が決定的でした。

反して神ちゃんの歌声には、そんな生々しさがあまり感じられません。ときに、アニメのキャラクターのようなんです。神ちゃんの声。

声優さんの声みたい、じゃなくて、異次元のアニメキャラクターみたいに、クリアな声を出す。なのに感情表現はきっちりしている。はまちゃんも好きだと言っていた、「Eternal」の、”あいつらがやってくる♪”パートなんかが顕著かな。それに、楽曲のコンセプトによって細かく器用に声音を使い分けたりなどもしていて、まるで曲によって、違う人格があるようにも感じられます。

歌声に関してもそうだし、演じ方についてもそうで、果てにはダンスについても感じるんです。二人ともうまいけれど、アプローチの仕方がまったく違う!!!面白い!!!しかし何故だ!!!

わたしが神ちゃんを好きな理由の一つに、「憑依芸がめちゃくちゃうまいから」というのがあります。これは、モノマネがうまいから、というのとはまた違って(モノマネがうまい器用さも好きなんですけど)、自分からかけ離れた人物にでも瞬時に移動できるその"飛躍力"(と思いきりの良さ)が好き、というものです。

智子とかもう最高なんですけど(神山担で智子を嫌いな人はいないだろう)、神ちゃんのその瞬発力、飛躍力、想像力、発想力、が、もうぜんぶ好きなんですね。自分とまるっきり違う人物にも、想像の及ぶ範囲内でなら軽やかに素早く飛んでいってしまい、そして自分の全人格を傾けて、その人物になりきってみせる、という。

(わたしは基本的に、神ちゃんって「献身性」の人だと思っていて、我が強いわりに身を捧げる表現が得意だ、という、アンバランスな個性をもつアイドルだと感じています。そしてその危うさが色っぽく、魅力的だとも。臆病がゆえにとても受け身で、相手からのアクションがない限りなかなか自分からは動けないんだけど、ひとたび相手に求められたとなれば、それに全身全霊で応えようとするような人ではないかと思う)

神ちゃんってきっとフィーリングの人で、感覚でやろうとするし、ある程度は出来てしまう、まさに"身体言語"の人なんじゃないかなあ、と感じています。筋金入りのダンス畑育ちであり「まず、やってから考える」「やりながら考える」「やっているうちに理解する」という、"身体性"の申し子のような。(なので、言葉はあまり得意ではない)

WESTの中で、神ちゃん・流星・淳太が、比較的「かっこいい」と思うものが似通った位置にあるメンバーなのかなあ、と感じるんですけど、この中で、流星はまずもって外見に恵まれており、神ちゃんは身体感覚に恵まれているので、神ちゃんがその身体性でもってポーンと「かっこいい」と思われる地点の表現まで辿り着いてしまうと、不器用かつ運動音痴でそのショートカットが理解できない淳太は、「神ちゃんかっこいいー!!ええなー!!」となるのではないでしょうか。

ただ、そんな淳太がだから、粘り強い研究と努力と美意識の積み重ねで自らの"魅せ方"を極めてゆく様子は、素直にすごいなと感嘆するし、まずもってアラサーの身で他のメンバーと同じ運動量をこなしていること自体がすごいなと尊敬していますし、神ちゃんにいろいろアドバイスを貰ったりしている話を聞くと、良い関係だなあとほっこりします。

そんな、飛躍力に優れた神ちゃん。だからこそ、生々しくない遠い次元の表現まで、軽やかに飛んでいけてしまう。自分と対極の位置にある女の子という「異性」にすら、"想像しうる限り最良のかわいらしさ"で、応えてみせるんですね。

それが、どこに由来しているかはあまり重要ではなく。すべては、神ちゃんの情報量と想像力と飛躍力によるものなのかもしれません。

そうやって、神ちゃんが"飛躍力"で「なんとなくそういうものかな」というところまで飛んでいけてしまう人なら、反対にはまちゃんは、"自分"に強く由来した表現しか導き出せない人なのではないか、と感じています。

"自分"からスタートする、その足元からこつこつと積み上げてゆく、そこから踏み出すたびに切り拓かれてゆく、はまちゃんだけの道。

その手で触れたものや、掴んだものや、掴み損ねたもの、流した汗や、涙や、痛みや苦しみ、そんなすべてをくつがえすほどの喜びや、重ねてきた時間、そんなものに裏打ちされた場所に、その歩みでもってでしか、行けない人なのかもしれない。

でも、そんな彼だからこそ、手にしているものがあります。

それが、つまりわたしが感じていた、はまちゃんの表現に詰まった生々しさや人間臭さであり、濃淡や陰影のある感情のおうとつや、艶や多面性であり、人々がはまちゃんに魅せられてしまう理由、なのかもしれません。

そんなアプローチの仕方のまったく違う二人の表現が、一つのグループで、交差するジャニーズWEST。興味深いなあと、改めて思うのでした。

アシンメトリーについて(あるいは、シンメではないということ)

 

どうも。ジャニーズに足を踏み入れてからというもの、シンメという概念について考えない日はないわたしです。

そうさせているのは、神山くんと重岡くんという存在が最たる原因なのですが、シンメという概念に固執するあまり、反して「シンメではない」というのはどういうことか、についても考えるようになりました。

そのきっかけは、小瀧くんとはまだくんにあります。さらに言えば、「雪に願いを」という二人のユニット曲のせいなのです。

今日は、「シンメではない」すなわち"アシンメトリー"である、ということについて、深い意味をもたらしてみせた、はまこたという概念に関して、ちょっと考えてみたいと思います。

 

 

 

ジャニーズWEST内のシンメ

 

まず、ジャニーズWESTのシンメについて考えてゆきます。紆余曲折あったグループなので、さまざまな部分を取り上げることもできるのですが、ここはJr.時代からの定番の組み合わせを挙げてみます。「B.A.D.」と「ツインタワー」と「かみしげ」です。

この3つはどんなシンメだろうか、とわたしは考えます。B.A.D.は、考え得る限りパーフェクトなシンメ。ツインタワーは、並ぶことで武器になるシンメ。かみしげは、箱庭になったシンメ。という印象です。

シンメになる。アイドルが二人組になって踊る。というからには、相手がいることが最低限、互いにとっての"利"にならなければいけないんじゃないか、というのが、わたしの基本見解です。なので、補完関係にあり、情があり、ビジネスパートナーとしても良い関係に見えるばっどは、すごく良いシンメだなって思うんですよね。

ユニットのときは、二人で二人の立場や利を懸命に守ろうとしていて、そしてグループになった今では、その端と端で、今度はグループの利を守ろうとしているように見えます。二人組のみならず、"グループ"であるからゆえに、もたらされる利。

自分たちにはない強みをもったメンバーが、今度は5人も増えたのだから、その力を共に頼り享受しつつも、"良いグループ"になれるように、考えて動いている。

ツインは、ある意味ものすごくわかりやすくて、隣並ぶことで、ビジュアル的に互いに増幅効果を導き出せる、っていう、これはもう清々しい、素晴らしきシンメの形なのかもしれません。視覚的効果でぶん殴ってくるような、明快さが良い。二人+〇〇でさらに美味しくなるニコイチ感も美味です。

かみしげについては、わたしは語る言葉をほとんど持たないのですが、それは重岡くんが内側から扉を閉めることを選んだからで、わたしはそれを尊重したいと強く思うからです。ものすごく閉じたシンメだと思うのですが、そこにきっと意味があるんだとオタクは勝手に思っていて、そこが大好きなのです。

気軽に触れられたくないと思うなら触れないし、暴かれたくないと思うなら暴きたくはないし、ただ、二人のあいだに確かに、二人にしか共有できない世界があることに感謝しかなく、出会ってくれてありがとう、一緒にいてくれてありがとう。二人が目を見合わせて笑いあうたびに、オタクはむせび泣いています。

7人いるので、3つのシンメができてしまうと、立場的に1人余ってしまう人が出てきます。それがはまちゃんです。ただ、わたしは感じるのですが、はまちゃんとは、「余っている人」でも、「誰からも愛される人」でもなく、「いつまでたってもシンメを不在にしたままでいる人」ではないかと、最近はとみに考えます。

ジャニーズWEST自体もそうで、はまちゃんの隣にそのたび誰かを入れることもなく、永久欠番という形で、そこを空けたままにしている感があり、それがジャニーズWESTというグループの選択ではないか、とも感じるのです。

記念すべき初ドーム公演で、はまちゃんがJr.時代の曲「Stay Gold」を歌ったとき、彼を一人にはしなかったものの、しかしばっどは、並ぶこともしませんでした。ただ、少し離れて、二人して盛り上げていました。

ばっどは、シンメです。はまちゃんは「シンメを失くした人」ではなくて、「そこを不在にすることを選んだ人」では、なかっただろうか。

ただ、ジャニーズWESTは7人組のグループで、あのコンサートは正真正銘ジャニーズWESTのコンサートだったので、誰も、はまちゃんを、一人になどできるはずがなかったんじゃないかと思います。そのとき隣に並ぶことはできなくても、一人にしないことはできる。それが、"グループ"という形であり、ジャニーズWESTの、思い出とメンバーの守り方ではなかっただろうかと、わたしは考えます。

 

 

 

シンメにはならないということ

 

今まで、シンメと、シンメのいない人の話をしてきました。不在にしたままでいることにより、"いない"ことが「いた」ことの証明だ、みたいな人の話をしてきました。今度は、そういう人に対する態度として、対になることは選ばなかった人の話をしたいと思います。

対にならなくても、寄り添えることはある、という、これはそういうお話です。

わたしがはまこたについて考えるようになったのは、それはそれは遅く「雪に願いを」という曲を聴いてからでした。それまでは正直、この組み合わせがよくわからないでいたんです。それなのに、その曲を聴いたらば、ふと霧が晴れるようにして、一瞬で「これはそういうものなのか」と、腑に落ちるように理解しました。

まず感じたのは、この二人は、互いの声をここまで裸に剥き合える存在なのだなあ、ということでした。なおかつ、さらに二人が二人で歌うことで、これほどまでに高め合えてゆけるのであれば、これはもう、どうしようもない意見なんですが、わたしは即座に

「実質セックスじゃん!!!!!!!!!」

と思ったのでした。

いや、まじでセックスですよ。わたしがはまこた担なら、こんな興奮することはなかった。

ただわたしはかみしげ担で、かみしげという組み合わせは、その性質上、まるで壊れ物を扱うかのような繊細さで互いの世界に触れようとするようなシンメなので(概念です)、暴き合うなんてのはもってのほかで、相手に気に入られるために着飾り、二人して閉じてゆくようなシンメなので(しつこいですが概念です)、その違いに驚いたのです。

そこから、はまこたのことを考えるようになりました。

この曲に関するインタビューで知ったのは、しっかり歌いたいからという理由で二人の組み合わせになったこと、それまでいろんな曲が候補には挙がっていたが、二人して「これだ!!」となったのは該当曲のみだったということ、先にはまちゃんが歌入れをして、それを聴いたのんちゃんが、その声に引っ張られるような形で、歌ったということ。

わたしがいつも思うのは、はまちゃんって、この曲が好きだ!!とか、これが好きだ!!みたいな感情が、屈託なくはっきりとしていて良いなあ、ということと、のんちゃんって、人を尊重できる人なんだよなあ、ということです。

敏感にその機微を読んで、人に寄り添ったり包んだり、ときに与えたりすることのできる人で、今回だってきっとたぶん、この曲が好きだ!!というはまちゃんの強い力に引っ張られて、その気持ちに寄り添いたいと思って、結果、二人はああいう歌い方になったんじゃないかな、と感じたのです。

のんちゃんって、はまちゃんが抱えている大切なものに寄り添えるし、与えられる人なんだなあ、って思いました。ギターに初挑戦しようとしたことを鑑みても。

別に、何かが対であるような二人ではないと思うんですよ。むしろ、その力に引っ張られたり、一方的に寄り添ったり、相互に何かを引き起こすというよりも、少しあべこべなタイミングだからこそ、やや離れているからこそ、できることがあるのかもしれなくて。

シンメとは、二人でいることで、それが武器になる、武装になり、並ぶことで、互いの存在を引き立て合える。そういう、相乗効果のことだとしたら、互いの存在を、ときに裸に剥き合えて、無防備にできるような二人の関係は、やはり、シンメではないからゆえ、なのかもしれない。

アイドルがステージに立つことは、装うことと、剥がれることの連続ならば。

シンメを不在にすることを選んだ人に、アシンメトリーな立場だからこそ満たせる役割があるとしたなら、それはとても素敵な発見なんじゃないか、と思いました。

Sexy Zoneのサマパラを見ました(ふまけんのみ)

 

取り急ぎ、ふまけんのサマパラを見て、とても面白かったし興味深かったので、その感想をメモしておきます。ただのジャニーズWESTファンで、2015年のソロコンも、セクゾの現場も知らない人間の戯言です。

 

 

菊池風磨の自分史と思春期の終わり。<風 are you?>

 

 

まず、ソロコンっていうのは、こんなにも、その子がどんなアイドルか、ということが如実に浮き彫りになるのか!といった衝撃と、むしろ、そういう、それぞれのカラーを出せるまでになった彼らの成長もあるのだろうなあということと、あと、Sexy Zoneっていうのは、個の乱立がすごいグループなんだな、という印象を抱きました。

その個が吸着して一つのグループとしてまとまり完成度を高めてゆく段階にはまだ至っていなくて(これからだろうなという予感はあります)、それは、風磨が長いこと思春期だったことも影響しているのだろうけど、その前にまず、まだまだ未完成でやわらかな感性をもつ、自分のことのみに必死で未成熟な状態から、突然、グループとして抜擢され束ねられて、あれよあれよという間に華々しくデビューすることにまとわりつく弊害、というのもある気がします。

(わたしはそれを弊害と言ってしまったけれど、バレーデビュー組のそういう宿命や血筋や成長を好む人も、もちろんいるのだろうと思います)

風磨コンを見てまじまじと感じたのは、ああ、彼はやっと、自分の"やりたかったこと"を、気の合うメンバーたちとやりきって、それまでの「"自分"の歴史」に一区切りをつけ、思春期を、青春期を終わらせられたのかなあ、ということで、終始、内に内に向かってゆくような、"自分"を突き詰めるかのような、極めて個人的で、私的な内容のコンサートでした。

本来"大衆的"であるはずの、アイドルのステージには似つかわしくなく。

(しかし、これはこれでよいのだと思う。これは"菊池風磨"のソロコンサートなのであり、風磨のこの姿勢は、とても誠意的なものなのだと感じた。詳しくは後述)

"自分"のやりたいことを、"自分"の見せたいかっこよさを、"自分"の好む服装やダンスを、"自分"の好きなメンバーと。バックなんか関係なく、みんな横並びで、まるで友達同士みたいに。

しかし、彼にはどうしても、それが必要だったのだと思います。とことん"自分"を見つめて、自分の"やりたいこと"をやりきる、その機会が、どうしても必要だったのだと思います。一つの区切りをつけて、前を向くためには。

考えるに、風磨は「やりたいことしかできない」とても不器用なアイドルで、本当のところは、自分の半径数メートルくらいで世界が完結しちゃうような(そこにいる仲間を大事にできたら、究極的にはそれでいい)とても個人的なスケール感覚をもつアイドルで、なのにそんな彼が、"地球"や"時代"といったワードのぽんぽん飛び交う、とんでもなくスケールのでかい浮世離れしたデビュー曲を歌うグループで、デビューすることになった。

そういう前提が、まずある。あった。

2016年の風磨のソロコンは、彼が出演した夏のドラマと奇しくも重なるような形であり、そのコンセプトは、美しいほどに一貫していたように思われます。

"自分"を掘り下げる。自分とは何者なのか。何を好むのか。何を大切にしたいのか。誰と、どういう空間を作りたいのか。過去の"自分"に会いに行く。

すると、"現在の自分"が見えてくる。という趣向。

過去の自分を通して、現在の自分が形づくられてゆくわけですね。

風磨のコンサートは、一貫してそういう形になっており、現在の自分を知るために、彼は過去の自分に会いにゆくし、"自分"を突き詰めることで、実は彼は、"他者"と繋がろうとしているかのようにも見えます。

自分をつまびらかにしながら、おずおずと「みんなもそうじゃないかな?」と問いかけることで、彼は、そこにいる観客たちと、繋がろうとしているかのようです。

彼がここまで"自分"にこだわるのは、そうやってとことん"己"を突き詰めることによって、やっと「僕はこうなんだけど、みんなはどうですか?」と他者に問いかけられる、そんな性分の人だからではないかと感じたし、「やりたいことしかできない」彼は、だからこそ、そのやりたかったことを、ここまで研ぎ澄ませて、見せつけて、やりきって、それからでないと、とりこぼしてきた他のことに、目を向けられなかったんじゃないかと思う。

もう、やりきるしかなかった人だと思うんですよ。

「やりたいことしかできない」人だからこそ、その"やりたいこと"を、自分の好きなスケールで、自分の好きな仲間たちと、自分の好きなノリで、見事なまでにかっこよくやりきって、とことんまで"自分"にこだわって、内に内に向かって、それからやっと"他者"に向かえるし「やらなきゃいけないこと」に立ち向かえる。

そういう人だったんじゃないかなあ、と感じたのです。

わたしはジャニーズWESTのクリスマスに行われたコンサートにて、似たようなエモさを体感しており、しかしジャニーズWESTのそれは、"ドームスケール"の箱にみちみちた、"グループ単位"のそれだったのです。

ああ、これは「区切り」なんだなあ、という体感。自ら「区切り」にきたんだ、という感覚。

わたしは今のところ、彼ら(ジャニーズWEST)のアイデンティティは、まず個の確立よりも「グループとしてあること」だと感じているので、関西ジャニーズJr.時代からのファンを引き連れた7人(と、思い出の)、彼らのお話の一つの区切りは、ドームレベルじゃないと収まりきらなかったんじゃないか、と感じています。

しかし、菊池風磨"個人"が挑んだスケール、好んだ空間は、あそこだったんじゃないかなあ、と思うのです。

あの夏あの空間で、風磨のまばゆい夏のような思春期は、本人の手によって、一旦終わりを告げたんじゃないかなあと。

だから、あえてグループ曲は歌わなかったし、「Sexy Zoneになることが夢」だと、そう語ったんじゃないかと思いました。

とことん"自分"にこだわって、"我"を貫き通して、貫いて、こだわって、貫き通して、その先に、やっと見えてきたものたち。

勝手にそんな感想を抱いた、2016年夏の、菊池風磨のソロコンサート<風 are you?>なのでした。

 

 

 

 

 

 

はい。所変わってケンティですよ。みんなのラブホリ王子ことケンティー。

"個人的"な自分の歴史に終始した風磨コンとは違い、ケンティは"大衆性"を備えた、まるでアイドルの申し子のような人だと感じます。

ただしそこはケンティ、わかってるなと感じるのは、恋人たちには「秘密」が不可欠なこと。特別感を煽るには「限定性」が大切なこと。つまりは、色恋には"閉鎖性からなる親密感"と、"他との線引き"が必要なことをよ~くわかっています。

ケンティは、ハニー(ファン)の前には、(文字通り)バタフライになってあらわれるのです。

はいこれ、まったく笑うところじゃありません。

と言えないくらいには、中島健人のソロコンサートは、ちょっと理解の度を越えた異様な空間なのでした。

 

 

 

ハニー以外から見た<#HoneyButterfly>の世界について。

 

 

 

中島健人のソロコンサートは、この夏、コンサートのためにファンに向けて書き下ろしたという「Hey!! Summer Honey」というOP曲から始まります。この演出がまた素晴らしくて、風磨コンの後に続けてディスクの再生に入ったわたしは、その対照的さに、時間を忘れてひとしきり笑い転げてしまいました。

ケンティが、裏から、会場内を練り歩いてくる様子がまず映し出されるんです。その間に、バックに付いているJr.たちと戯れて、こんな子たちとステージを創り上げてるよーってな感じで、ケンティの座長感がすごい。今から見ようとしているアイドルが、どんどんと目の前のステージに近づいてくるという演出のドキドキ感、それを煽るようなとびきり特別で素敵な今日のための楽曲と、自分たちの今いる会場に、そのアイドルもいるんだという身体的感覚を、視覚により、存分に味あわせる手法。また、単純にその廊下を練り歩く様子のクドさ。

わたしは思いました。

こいつ、サービス精神が半端ない!!!!!!!!!!!!!

いま全力で、全身全霊で、自分のコンサートが始まろうとしているそのことを、懇切丁寧に、丹念に、その一挙手一投足で、一瞬一瞬で、待ちわびているファンに知らしめようとしている!!!!!!!!!!!!

サービス精神が半端ない!!!!!!!!!!!!!!!

自分がやりたいことに終始していた風磨コンとどんだけ違うの!!!!!!!!

もはや過剰!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

お前らそのサービス精神2で割れ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

そして始まった曲が「Teleportation.」だというから、わたしは仰け反りました。解説するまでもなく、そうしてやってきたと、幕開けを告げる曲なわけです。

内に内に向かっていた印象のある風磨コンとは違って、ケンティは、外に外にというのみならず、その自分という個体の"外"にいるファンが、どのような気持ちでいるのか、どうしてあげたら嬉しいと感じてくれるのか、喜ばしてあげられるのか、気持ちが伝わるのか、もう、ものすごく良く考えていて、それは、ある意味過剰なほどです。

おそらくケンティがオタク気質だからというのもあるとは思うんです。オタクにはオタクの気持ちがわかるからこそ、ケンティのあのクオリティは成り立っていると思うんです。そういう自分が好きなのもあると思うんです。

でも、それでも。

ケンティの面白さは、その"過剰さ"にあるんだとしみじみと感じました。

だって、ぶれない自分のビジョンがあるからこそ、一貫してコンセプチュアルに進んでいた風磨コンとは違って、ケンティコン、もう、支離滅裂なんですよ!!!情緒不安定で、しっちゃかめっちゃかなんです!!!ついには、ケンティのアイドル芸が行きすぎて、なんだかキャラクターじみて見えてくれば、エレクトリカルパレードみたいな感じでNEWSの「Touch」が始まるし(すごく良かったです)、まず本人の存在自体が大ボケなのに、岸くんというボケキャラを二番手に据えてJr.も突っ込む余裕がないから、ボケボケだらけでステージ上が収集つかないし。

しかしそれらはすべて、彼のサービス精神ゆえなんじゃないかと感じました。これも見せたい、こういうのも見たいんじゃないかな、これも入れたい。これもしたい。

過剰なのが面白くて、溢れんばかりの濃い挙動と、磨き込まれたキメ顔角度に流し目。指先まで意識の行き届いたダンスにポーズ。クドいサービス精神が愉快で、グループ曲を歌っているのも良いなと感じたし、あとはそういう、たくさん乗せよう豪華にしちゃおうそれならハニー喜んでくれるかな?みたいなアイドルだからこそ、メドレーのキラキラ感、美味しいとこ取り感がものすっごく良かったんです。本人の姿勢にとびきりマッチしていて。

ケンティって、度を越えてるからこそ良いんだと思います。